私は昔、父親に「オレは上だ。お前は下だ。お前は自分のことを自分で決めることはできないから、代わりにオレが決めてやってるんだ。」という考えを毎日のように言われていました。
自分の行きたい高校にも行かせてもらえず、毎日、お前はダメだと言われ続けるのはしんどかったです。それをバネに自分で何かしたくても、行きたくない高校で、いまいち仲良くなりたくない同級生たちに囲まれて、アルバイトは禁止され、お金は千円渡されて「なくなったらいえ!」方式。そして、毎日毎日バカにされ続けました。頭がおかしくなりそうでした。毎日父親を殺したいと本気で思っていました。学校も行きたくなくて、授業時間に部室で暇を潰したりしてました。誰にも心を開けませんでした。
そんな中、大学受験の時期に突入しました。私の成績は、国語と地理はとても良く、英語は普通(以下)、理数系は全滅でした。父親は「お前の成績は地べたを這いずり回っているな~」と三者面談の後、楽しそうにディスってきました。母はいつもそんな父親の味方でした。私を助けてくれる人はどこにもいませんでした。親には何を言っても聞いてもらえませんでした。私は孤独でした。孤立もしがちでした。一番前の席で黒板が見えないと言っているのに、メガネのレンズを変えてもらえませんでした。それでも、私が大学受験のとき、妹が高校受験で、親から「妹の受験を見てやれ」と号令が飛びました。私は妹の勉強を見てやり、妹は第一志望の高校に無事に受かりました。私は第一志望の大学に落ちました。
親が大嫌いでした。でも、親のお金がないと自分のいきたい進路に行けないのを知っていたので、我慢して生きていました。お前には何もできない、そういわれ続けるのが苦痛で毎日泣いていました。
第一志望の大学は、父親が指定した県内の大学でした。受かった第三志望の大学は、県外の大学でした。何かの偶然で、私は下宿できることになりました。
下宿先のアパートを、父親は「ここはオレの出張所だ!」と言いました。後で、「お前には1000万はかけたよな。だから何をされても怒るなよ。」とか、嬉しそうに言われました。
下宿から親がいなくなった瞬間、私は手持ちのお金でまずメガネを作りました。それで学生生活は見えなくて不自由することがなくなりました。
本当は理系の大学に入って技術職になりたかったのですが、理系は全滅で文系になってしまって、これからどうしようと思っていたら、それまで友達がいなかった私に、後から後から友達ができました。ここには親はいない。いるのは期間限定。私は大学で素の自分をだすことにしました。すると、そんな私と気が合う人ばかり友達になり、部活、サークル、教職の授業、歴史の課外授業、ゼミ、バイト先…ありとあらゆるところで友達ができました。
学生時代しかできないことをしようと、ちょっと前向きになって、学校の勉強が好きだったので、教職で普通の人の倍の授業をとり、学祭の実行委員やゼミではあちこち行ったりとアクティブに過ごしました。
そのときの友人は、後に私が統合失調症になっても、誰も離れていきませんでした。
今苦しい方は、まだ、自分をだせる場所にたどり着けてないだけかもしれません。
今はネットもあります。1度でダメなら何度でもチャレンジできます。
「逃げるは恥だが役に立つ」
これは、戦う場所を変えよ、という意味もあるそうです。自分の居場所を探すことを諦めないでください。
あなたを受け入れてくれる場所は、きっとあると思います。